東急の創業者であり日本の鉄道王・五島慶太氏を取り上げた、テレビ「私の履歴書」を見ていて、ご本人喜寿のお祝いの時、母がもらったという杯があることを思い出した(笑・・。
白木屋が昭和31年に東急系列に入ったことから、関係企業の全社員に配られたお祝い品のひとつと聞化された。
なぜか私の手元にあるが、これは母のものである。
母と白木屋デパート
私の母は若い頃、日本橋の白木屋デパートで、電話交換手として勤めていたことがある。
「白木屋」は、女性が下着を着けていなかった当時、地上まで降下避難できず死亡者を出した昭和7年の大火事でも有名である(これを教訓に、女性の下着(ズロース)着用が呼びかけられた)。
昭和20年代、乗っ取り騒動として衆目を集めた経営紛争が起こるが、この事態の収拾の要請を受けて支援したのが、当時東急グループ総帥だった五島慶太氏であった。
ともあれ、当時の白木屋は、三越・高島屋・松坂屋などと並ぶ老舗百貨店のひとつであった。
東急の資本下に入り、昭和42年には「東急百貨店日本橋店」に名を変えた。
残念ながら、平成11年に経営不振で閉店したが、この百貨店は、現在コレド日本橋になっている地にあったのだ。
電話交換手という言葉も今や昭和の香りが漂うが、戦後復興した日本でそれは、デパートガール・エレベーターガール(手動だった頃は昇降機ガールというんだってw)とともに、都会の女性が憧れた職業であるとともに、数少ない女性の職場であったらしい。
私が生まれてすぐ母は白木屋を退職したが、「生い立ち」と書かれた真っ赤な私のアルバムは、職場からいただいた出産祝いの品だったらしい。
私も母に聞いて最近初めて知ったが、昔話はちゃんと聞いておくものだと思った次第(笑・・。
テレビ番組から思う経営者の横顔
五島慶太氏はさほど裕福な生まれではなかったようで、大学に進めず、一時は高校の教職に就くが、回りが「バカに見えて」一緒にやってられないと、苦学して東大に進学した。
その後官僚になるのだが、そこでも自らの処遇等に満足できなかったようで、引き抜きを受け事業の道に進むことになる(しかし、この「イヤだから」と着実にステップアップできる能力と実践力は、眩しいくらいに羨ましいw)。
恐慌、戦争の苦境に晒され事業が逼迫した際には、自殺を考えるほどに苦悩もしたようだが、このあたりからの底力もすごいものだった。鉄道敷設や東京近郊の街づくりへの強い執念のようなものさえ感じられる。
会社存亡の危機なのに広大な土地を無償提供して慶応大学の日吉誘致を強行、西域を新橋でつなげるためには、反対した東京メトロの創業者を資力(M&A)で排除するなど、かなり強引に目的をおし進めていく。
ゼロから蓄えた財産も本人の大きな力であろうが、このために世間の批判や嫌悪感からついた異名は、「強盗」慶太。
同時代にいた西武グループの「ピストル堤」と比較されることもあるが、こうして最後は、運輸通信大臣まで上り詰めた。
危機に際しての凡人にはできない発想やけんか腰な強引さが、稀代の経営者となったこの方の特質かも知れない、と「私の履歴書」を見て思ってしまった。
バブル期に憧れる人の多かった多摩・横浜方面のベッドタウンは、こうして開発された地域でもあろうが、一代でこれほどの事業を成し遂げた力量と腕力が驚くべきものであることは、まちがいない。
「喜寿 慶太」との銘が入っている杯が配られたのは、五島慶太氏が76歳だった昭和33年の春。この方が世を去る前年のお話である。